Choose life. Choose a job. Choose a career. Choose a family. Choose a fucking big television, Choose washing machines, cars, compact disc players, and electrical tin openers. Choose good health, low cholesterol and dental insurance. Choose fixed- interest

一日って、不思議とその日特有のテーマがあったりする。
不可視の指先を追っていくと、決まった場所へ辿り着くような。
この日記は、今日感じたばかりのテーマについて。

今日は本を持っていなかったので、帰宅途中に聴くPodcast
音楽系じゃなくて、語り系にしていた。



podcastに、BBCの『Thought of the Day』という番組がある。
http://en.wikipedia.org/wiki/Thought_for_the_Day
ユダヤ教のラバイとか教会のレバラントとかが話す、まあ宗教(道徳)番組なんだけど
本人の宗教観から「日々の気づき」みたいな短いプレゼンをするわけだ。
特定の宗教に属さないし、それほど関心のない私は、
そういう人々がどんな風に話すのか(どんな英語を使うのか)を知りたくて聴きはじめた。
内容的には、べつに滅茶苦茶面白いわけじゃないよ。オススメではない。
でも、たまに、おお〜って感じの人がいたりする。

ラバイが、あるユダヤ教のお祭りの説明をするのに、
「我々は一体どこまでいこうとするのか?その目的と希望を振り返るためのお祭り」と話した。


ところで、
150年前、ロンドンで馬車やら車が進むスピードはどれ位だった?
時速10マイル。
では現在のロンドンで、車が進むスピードは?
時速10マイルなのだ。



信じられないほど早く走る車や、ロケットが開発される一方で、
交通渋滞の酷いロンドンでは、150年前と同じスピードでしか人は進めない。
テクノロジーの進化と共に、人間の身体には熱風みたいなものが吹き付けるようになった。
いつでも顔にドライヤーの熱風があてられてる感じ。
熱風の構成物は:万能感と無力感、希望と絶望、期待と虚無の絶え間ない繰り返し、おしゃべり。
スクリーン上の「なんでもできる」というプロパガンダ映画を観る私たちは、
座席に拘束されたまま「なにもできない」ことを思って、微かに自由のきく拳を握るだけ。



と、そんなことを番組を聴いて思った。
次、入れっぱなしにしてたTEDのレクチャーを見始めた。

なぜ選ぶたびに後悔するのか―「選択の自由」の落とし穴

なぜ選ぶたびに後悔するのか―「選択の自由」の落とし穴

↑この本についてのレクチャー。

http://www.ted.com/talks/barry_schwartz_on_the_paradox_of_choice.html
subtitle languageでjapaneseを選ぶと字幕がつきます↑


Barry Schwartzさんは、心理学と経済の関係を研究してるらしい。
The Paradox of Choiceというタイトルが示すように、
「選択」が増えるほど、我々は逆説的に「自由」から離れていく、という話。
「選択」と「自由」はイコールではない。
でも私たちは、選択の多さこそが自由の拡大だと信じている。
実際は、より多くの選択肢とはタダの足かせにすぎない、
膨大な量の選択肢を前にすると、私たちの身体はひたすら麻痺しちゃうんだから!
だって、何を選ぶのがベストかなんて、どんどん分からなくなっていくんだ。
一体どうしたら自分が満足できるのか、最高のものを手にいれたら・・・と人は思うけど、
「最高」なんて、資本主義における実体のないバンパイアだよ。
どこかに最高の何かがあるかもしれない・・・と期待すること。
こいつが曲者だ。
「今」に生きることができなくなる。
何をしていても、別のことを「期待」して満足できないからね。
それに、選択肢が少ない場合、
選択を「間違える」と意識する可能性はとても低い。
(あと、辿って選択し直すのも容易いね)
例え失敗しても、失敗の責任を問う対象を、
その選択肢を提示する母体、つまり「社会」という曖昧なものにスライドさせることが可能だ。
でもね。
選択肢が増えるほど、私たちは「なにもかも自らの自由意志によって選択している」という幻想を抱き、
かつては課されなかったはずの「選択」における責任を、個人で背負うことになっちゃうんだ。
あなた(が)間違った から ダメ
わたし(が)間違った から ダメ
これは分離された意識だ。
この意識を持っていると、どんどんsegregationが加速して、
共感すべき人/時/場所に、コンタクトしにくくなる。

自殺や心の病が増えてる背景とThe paradox of choiceは関係してるかもね、ってレクチャーで言ってた。


・・・

さて、ここでふ〜ん、と面白がっていたら、勝手に次のpodcastが始まった。
これも、ずいぶん前に入れて忘れてたレクチャー。


ジル・ボルト・テイラーって知ってる?

奇跡の脳

奇跡の脳

↑こういう本もある、私は未読。
神経解剖学者の彼女が話す、脳卒中によって左脳の機能を失うという体験。
まずは少し生い立ち、それから脳というものが一体ナニモノなのか、という話が始まる。
右脳と左脳って、それぞれにパーソナリティーがあること、知ってた?
彼女が体感した脳卒中の詳細、もう凄すぎて面白すぎて、びっくり。
ぜひぜひ彼女自身の語りを聴きながら、観てみてみ。


まあとにかく観て下さい。
私は泣いた、バスの中で。
今もう一回観て、また泣いた。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

個人的な体験。
去年、自分が最も恐れていたことが実現した。
個人的には、自分に生まれつき備わった根源的な恐怖そのものが現実になってしまったような、インパクトあることだった。
(もちろん今は、振り返っても同じようなインパクトを感じることはできない。既に「どうでもいいこと」に変化したから)
さて、超パニック状態で、感情的綱渡&ローラーコースターに陥った時。
不思議なリアリティの中で生きていた。
その最中、はっきりと「見えて」いた、あるはずのないものがあった。
それは、
「右の道」
「左の道」
というもの。


それぞれの道には、とんでもないリアリティがあった。
それが「見えない」(というか他者と共有できない現実)ことは分かってる。
だけど、「在る」んだもん。
しかも、眼前に広がる道がどこへ続くのか知らないはずなのに、
なぜか
「右」を行けば絶対に大丈夫
(そして左に行くとダウンワードスパイラルに陥る)
と、確信していた。
「良い方」「悪い方」じゃないよ。
「右」と「左」だった。
当時のわたしのリアリティには、二つの選択肢しか存在していなかったのだ。
わたしは、毎秒、瞬間ごとに「右」を選び続けた。
そうやって「右」を選択し続けるためには、かなりの強い意志が必要だった。
なぜなら負荷がかかるし、心というものはすぐに迷いはじめるから。
負荷を私は「重力(G)」と呼んでいた。
「右に行くけど、Gがかかる」みたいな感じでね。
その負荷とは、私にとって紛れもないリアリティ、「身体感覚」だった!


いつの間にか「道」自体が消えてしまったけれど、(phew!)
あの感覚って、神経解剖学的に説明がつくのかもしれない。
知りたい!


というわけで、本日のテーマは
「選択」でした。


タイトルは、『Trainspotting』の有名な冒頭。