むいてない

私は本当に共同生活に向いてない。当然気づくべきことに気づかないからだ。人によってそれは違うかもしれないけど、人と一緒に暮らすべきじゃない。元夫とそっくりな点はそこだった。ルーティンができない、それが喜びになるまで待たないとできないというか気づかないしやりたくない。日常と喜びが直結していないと心には雲がかかってもうとにかく独りになりたくて仕方なくなる。日々の作業、つまりやるべきこととやりたいことを天秤にかけていつもやりたいことを優先してしまう、というかしないとストレスになる、というか行為のすべてに感情的な意味を込めている、感情的ではない行為をやりたくないと感じてしまう。
もっとシャープでクリアーな世界に生きていれば良かったけど、わたしの世界は変な塊があったり色づけもスプレーや刷毛やショットガンや色々あってよくわからないのよ。とても面倒なの。
無駄の多い人生。そう、でもどれが無駄でそうじゃないのかもわからないんだ。
なにかを始めるときもそれが感情的に喜びに直結していないとできないというかはじめることができない。楽しくないことはやりたくないというかやらないというかできない身体が動かないのだ、でもやらないわけにはいかないので全てを楽しく感じようというところから始めようとする、長い道のり。やらなければいけないこと、という意味がわからないどうして?どうしてやらなければならないということがあるの?と驚いてしまう意味が分からないと出来ない、やらなければならないことの意味が。みんなやってるなんて、わたしにとっては無意味なの、それじゃ分からないの。自分で考えて意味がわかったらできるけれどそれはやらなければいけないということではなく、その時点ではやると素晴らしいことに変化しているのでそれはやる、喜びだから。
でも意味を考える暇もなく沢山のやらなければならないことはある、おいつかない。
とても怖い。
だからひとりでいきていかなければいけないのか、と思うけれど、ひとりでやらなければいけないことをすべてやらなければいけないのか、そして意味は対話によって生まれるというのにそれは?自分ひとりで?誰かと一緒にいるのは楽しいことなのに。だって特別な誰かを愛したいし愛されたい。友達や家族を愛しているし大事に思っているけれどそれだけでいい、なんてまだ言えない、そこまで全然クールになれない。
すごく怖くなる、自分にはもう誰もいないんじゃないかって誰も?一人も残されてない?恋人なんてもうできない?なぜか今夜はとても悲しいなみだがでる。恋なんてしたくない誰かと出会って別れるなんてもういやだ。そうじゃなくて。特別な誰か、わたしと一緒に暮らすことのできるだれかが一人いればとても楽しいのに。そしてわたしがその人と暮らすことが喜びであるという相手がこの世でたったひとりいればそれでいいのに。もちろんできれば、人間で。動物や植物まで範囲を広げれば確かに可能性は広がるような気がするけど、話したいもの。対話が必要なのすべてには。

世界の意味をもっと知るためには、対話がひつようなの。