Forest for the Trees: Dream

たしか高校生か中学生の頃の曲。先日、車に乗っていたとき、ラジオでかかっていて思い出した。
ベックの「loser」の共作者。
調べてみると、アルバムを創ったあと、この人は精神に変調をきたし、
その後は音楽活動をしていないようだ。

「コズミック・トリガー」ぽい歌詞だな。


☆     ☆     ☆     ☆

ぼくらが此処に在るのは神の御業の顕われ
想像の世界に飛んで行こう
あなたは ぼくを高みまで連れていく
そして あの深淵の奥底までも



夢を見ているときは 
本当に眠っているのか目覚めているのか 分からない
起きてからも
本当に目覚めているのか まだ夢の中にいるのか
分からないんだ



夢 夢 夢 夢
人生は夢にすぎない
無限の海の波間を旅して
最高に感じきっているんだ
現実の影が見える
ぼくを抱きよせて 連れて行ってよ



ぼくは一人称
きみは二人称
今日の朝 ぼくは三人称だった
呪いを吐かず あらゆるものであれ
オイディプスは祝福である
太陽はきみの心に作用する
思いを拡大して 引き延ばせ 量には疑いを持つな
ぼくの脳は捉えられた
ぼくはただ祝福を受けている
トリップホップすれば流れに乗れるんだ
ただの夢だよ

この世で一番大事な「カネ」の話

母が買って来た本をパラパラとめくり、そのまま全部読んでしまった。

この世でいちばん大事な「カネ」の話 (よりみちパン!セ)

この世でいちばん大事な「カネ」の話 (よりみちパン!セ)

これはすっごーーく、素晴らしい本です。
お金については常日頃、考えさせられている。
それは折り合い、というかどう生きるかと稼ぎが直結してなかったり、
あるいはお金こそ自由になるために必要なものでもあり。
それに、格差社会とか言っちゃって、なんだかお金を持たないことが「悪」のような風潮であったり、云々。


先日この日記でアップした、アラン・ド・ボトンがTEDで行った講演の中に、
http://d.hatena.ne.jp/makirak/20100211/1265865230
昔は貧しい人々を呼ぶのに、「unfortunate」つまり不運な人々、という言葉を使ったが、
現在では「loser」と呼ばれてしまう、という話があった。
つまり、昔は「貧困」とは自分の手に余る人生の不確定要素も含めて引き起こされる事態であったのに、
今は全て、その本人の「実力」であるというレッテルが否応無しに貼られてしまうのだ。
(天の神様に責任を負わせることができたのに、今では全て本人の責任になる。
このへんは、バリー・シュワルツマンの「The Paradox of Choice」にも通じるところがあるな。)


純粋な実力社会というものはありえない。ランダムな不確定要素が多すぎるからだ。
だけど私たちは、何もかもが「実力」による結果に我々は生きている、と誤解したままでいる。
我々は人類史上初、我々以外を崇めない世代に生きている。
そこから嫉妬がはじまる!それは本質的に、我々は自分と似たものにしか嫉妬しないからだ!
トップに立つ人間の「実力」とやらが賞賛される反面、
トップに立たないことも実力である、と競争から転がり落ちた人間が、
その全ての責任を負わされるという、なんとも残酷なシステム!
強迫観念的に上をめざすことばかりが喧伝され、
それを当然の幸福が住む場所だと刷り込まれ続けていると、
一体自分の価値や場所はどこにあるのか、全然分からなくなってしまう。
誰もがスターになれるわけじゃない、というのではなく、
誰もがスターにならなきゃいけない理由なんて、一つもないというだけさ。


そこで。
ヒエラルキーのトップ、スターに神を据えてしまえば、人はもうあきらめるしかない。
神に嫉妬など覚えたりしないからだ、だって、自分と違いすぎるでしょ?
我々はすべて神の下にいるのだ、という認識の元であれば、
気まぐれな神の采配によって不幸に陥っているひとを見るとき、
私たちは(自分もいつそうなるのかもしれない、という自戒と安堵を込めて)かなり優しくなれる気がする。
それは私たちの姿でもある、と心から感じられるから。
手を差し伸べよう。


正直いって我々は、ギリシャ人たちが自然に霊性を見出したような
ビビッドで原始的なセンスと比べると、
洗練され過ぎていると同時に、鈍感すぎる。
ロックスターや俳優が出てくる寓話を毎日何度でも読むことができるけど、
そこからは何も伝わってこない。
ただ「ここまでおいで」ってだけだ。(どんなにグロテスクなニュースでもね)
デウス・エクス・マキナは死神だけ・・・なんてdepressingな社会なんだろう!
シンボルの奥にある物語にアクセスできにくくなっているんだ、
だから詳細ばかりがフォーカスされて、全体像が見えないようにしてある。
だから今の時代、ハイエラキーのトップに据えるものを考えるとき、もう地球上の何か、じゃ近すぎてダメだ。
あと、人間的な感情やら感覚を持っていると前提してきたシンボルも使えない。天使とか宇宙人とかもダメ!ださいし。
「きみに話しかける神」なんかじゃ、絶対に絶対にダメなんだ。
とんでもなく人間から遠く、壮大で、それが一インチ動いただけでもうボロボロ死んでいく、
でも見ることができて、全ての者が恩寵を受けているもの、そんな感じの存在がいいな。
・・・あ、太陽?


というわけで、ここに新宗教の設立を宣言する。
これは純粋な太陽信仰だ。
ミーティングや教典やお布施は一切なし。
(ミーティングがあるとすれば、それは君の恋人とのデートであり、
 教典があるとすればそれは君のお気に入りの本であり、
 お布施があるとすれば、それは君が大好きな人と最高の時間を過ごすために使われるお金であるべきだ)
人格化はゆるさない。太陽が好きなら、人格化しないで星の図鑑でも読んだら良い。
誰かと信仰について語り合うことも主張もいらない。解釈もなし。

ただこれだけ「太陽のもとでは一切が並列である」と考えながら陽の光を皮膚で感じること。(そのときは水も飲むこと)

君はそれだけで絶対に救われる。掬われても助けられ、自らを助け、他者を助けるだろう。
一週間でもそうやってみな、ぜったいに「自分だけ損するのはイヤ」なんて、二度と思わなくなるから。

Your mother's got a penis

昨日、iPodで流れてきて
(あー 自分のアーカイブであろうと、行為は受身的になってんだな〜。「流して」でなく「流れてくる」ものなのね)

あるシステムの中からランダムにピックアップしたものを読み取ること
というのが占いなので

いったいどういう卦なのでしょうね、この曲だと・・・

Marina & The Diamonds Hollywood

私、独自に応援活動を続けております。
Marina & The Diamonds は、今年大ブレイクいたしますわよ。

Family Jewels

Family Jewels

日本では知らないけどー。
マリーナは確かにキャサリンジーダにも似てるけどさ
密かに 関根マリちゃんに似てると思うのよね。

☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆


アメリカの女王はアメリカン・ドリーム
アメリカン・クイーンはアメリカの夢

アメリカで会ったあの子はポーランド
背の高い日焼けしたブロンドの可愛いアーニャ
「なんでハリウッドスターと結婚したいの?」って聞いたら
「だってこのまま終わるのなんて絶対イヤ」
お金のためならなんでもやるわ
金ピカの嘘を探してるのよ

[Chorus]
頭がハリウッドに感染すると
雨の中でキスしたくなるのよ
映画のシーンを生きちゃうの
吐き気がするアメリカン・ドリーム
ゴミみたいなことに必死になるのがアメリ
ヤバいことに必死になっちゃうの それがアメリカだから

うざい警備員がナンパしてきた
LAの空港についてすぐ こんな感じで

ワオ きみってシャキーラみたい
いや キャサリンジーダかも
っていうか わたしの名前はマリーナだから

あんたもわたしと同じよ
いわゆる 良い人ってやつよね
キラキラした黄金の嘘をさがしてるの


[Chorus]
頭がハリウッドに感染すると
雨の中でキスしたくなるわよ
映画のシーンを生きてきたわ
吐き気がするアメリカン・ドリーム
ゴミみたいなことに必死になってるの、アメリカだから
ヤバいことに必死になっちゃうの それがアメリカだから

ショック!!!!訃報

最も敬愛するファッションデザイナー、アレクサンダー・マックイーンが亡くなった。
まだ四十歳だって・・・なんてこった。
世界からまた一人、美しい人が失われてしまった。
革新的だけどすごく古典的なエレガンスがあって、とにかく美しくデカダンなそのデザインが大好きだった。
(が、予算の関係上たくさん着ることができなかった・・・そんな言い訳せずに着ればよかった)
マックイーンのいないファッション界なんて、ぜんぜんワクワクしない。
つまらない・・・

R.I.P.

Choose life. Choose a job. Choose a career. Choose a family. Choose a fucking big television, Choose washing machines, cars, compact disc players, and electrical tin openers. Choose good health, low cholesterol and dental insurance. Choose fixed- interest

一日って、不思議とその日特有のテーマがあったりする。
不可視の指先を追っていくと、決まった場所へ辿り着くような。
この日記は、今日感じたばかりのテーマについて。

今日は本を持っていなかったので、帰宅途中に聴くPodcast
音楽系じゃなくて、語り系にしていた。



podcastに、BBCの『Thought of the Day』という番組がある。
http://en.wikipedia.org/wiki/Thought_for_the_Day
ユダヤ教のラバイとか教会のレバラントとかが話す、まあ宗教(道徳)番組なんだけど
本人の宗教観から「日々の気づき」みたいな短いプレゼンをするわけだ。
特定の宗教に属さないし、それほど関心のない私は、
そういう人々がどんな風に話すのか(どんな英語を使うのか)を知りたくて聴きはじめた。
内容的には、べつに滅茶苦茶面白いわけじゃないよ。オススメではない。
でも、たまに、おお〜って感じの人がいたりする。

ラバイが、あるユダヤ教のお祭りの説明をするのに、
「我々は一体どこまでいこうとするのか?その目的と希望を振り返るためのお祭り」と話した。


ところで、
150年前、ロンドンで馬車やら車が進むスピードはどれ位だった?
時速10マイル。
では現在のロンドンで、車が進むスピードは?
時速10マイルなのだ。



信じられないほど早く走る車や、ロケットが開発される一方で、
交通渋滞の酷いロンドンでは、150年前と同じスピードでしか人は進めない。
テクノロジーの進化と共に、人間の身体には熱風みたいなものが吹き付けるようになった。
いつでも顔にドライヤーの熱風があてられてる感じ。
熱風の構成物は:万能感と無力感、希望と絶望、期待と虚無の絶え間ない繰り返し、おしゃべり。
スクリーン上の「なんでもできる」というプロパガンダ映画を観る私たちは、
座席に拘束されたまま「なにもできない」ことを思って、微かに自由のきく拳を握るだけ。



と、そんなことを番組を聴いて思った。
次、入れっぱなしにしてたTEDのレクチャーを見始めた。

なぜ選ぶたびに後悔するのか―「選択の自由」の落とし穴

なぜ選ぶたびに後悔するのか―「選択の自由」の落とし穴

↑この本についてのレクチャー。

http://www.ted.com/talks/barry_schwartz_on_the_paradox_of_choice.html
subtitle languageでjapaneseを選ぶと字幕がつきます↑


Barry Schwartzさんは、心理学と経済の関係を研究してるらしい。
The Paradox of Choiceというタイトルが示すように、
「選択」が増えるほど、我々は逆説的に「自由」から離れていく、という話。
「選択」と「自由」はイコールではない。
でも私たちは、選択の多さこそが自由の拡大だと信じている。
実際は、より多くの選択肢とはタダの足かせにすぎない、
膨大な量の選択肢を前にすると、私たちの身体はひたすら麻痺しちゃうんだから!
だって、何を選ぶのがベストかなんて、どんどん分からなくなっていくんだ。
一体どうしたら自分が満足できるのか、最高のものを手にいれたら・・・と人は思うけど、
「最高」なんて、資本主義における実体のないバンパイアだよ。
どこかに最高の何かがあるかもしれない・・・と期待すること。
こいつが曲者だ。
「今」に生きることができなくなる。
何をしていても、別のことを「期待」して満足できないからね。
それに、選択肢が少ない場合、
選択を「間違える」と意識する可能性はとても低い。
(あと、辿って選択し直すのも容易いね)
例え失敗しても、失敗の責任を問う対象を、
その選択肢を提示する母体、つまり「社会」という曖昧なものにスライドさせることが可能だ。
でもね。
選択肢が増えるほど、私たちは「なにもかも自らの自由意志によって選択している」という幻想を抱き、
かつては課されなかったはずの「選択」における責任を、個人で背負うことになっちゃうんだ。
あなた(が)間違った から ダメ
わたし(が)間違った から ダメ
これは分離された意識だ。
この意識を持っていると、どんどんsegregationが加速して、
共感すべき人/時/場所に、コンタクトしにくくなる。

自殺や心の病が増えてる背景とThe paradox of choiceは関係してるかもね、ってレクチャーで言ってた。


・・・

さて、ここでふ〜ん、と面白がっていたら、勝手に次のpodcastが始まった。
これも、ずいぶん前に入れて忘れてたレクチャー。


ジル・ボルト・テイラーって知ってる?

奇跡の脳

奇跡の脳

↑こういう本もある、私は未読。
神経解剖学者の彼女が話す、脳卒中によって左脳の機能を失うという体験。
まずは少し生い立ち、それから脳というものが一体ナニモノなのか、という話が始まる。
右脳と左脳って、それぞれにパーソナリティーがあること、知ってた?
彼女が体感した脳卒中の詳細、もう凄すぎて面白すぎて、びっくり。
ぜひぜひ彼女自身の語りを聴きながら、観てみてみ。


まあとにかく観て下さい。
私は泣いた、バスの中で。
今もう一回観て、また泣いた。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

個人的な体験。
去年、自分が最も恐れていたことが実現した。
個人的には、自分に生まれつき備わった根源的な恐怖そのものが現実になってしまったような、インパクトあることだった。
(もちろん今は、振り返っても同じようなインパクトを感じることはできない。既に「どうでもいいこと」に変化したから)
さて、超パニック状態で、感情的綱渡&ローラーコースターに陥った時。
不思議なリアリティの中で生きていた。
その最中、はっきりと「見えて」いた、あるはずのないものがあった。
それは、
「右の道」
「左の道」
というもの。


それぞれの道には、とんでもないリアリティがあった。
それが「見えない」(というか他者と共有できない現実)ことは分かってる。
だけど、「在る」んだもん。
しかも、眼前に広がる道がどこへ続くのか知らないはずなのに、
なぜか
「右」を行けば絶対に大丈夫
(そして左に行くとダウンワードスパイラルに陥る)
と、確信していた。
「良い方」「悪い方」じゃないよ。
「右」と「左」だった。
当時のわたしのリアリティには、二つの選択肢しか存在していなかったのだ。
わたしは、毎秒、瞬間ごとに「右」を選び続けた。
そうやって「右」を選択し続けるためには、かなりの強い意志が必要だった。
なぜなら負荷がかかるし、心というものはすぐに迷いはじめるから。
負荷を私は「重力(G)」と呼んでいた。
「右に行くけど、Gがかかる」みたいな感じでね。
その負荷とは、私にとって紛れもないリアリティ、「身体感覚」だった!


いつの間にか「道」自体が消えてしまったけれど、(phew!)
あの感覚って、神経解剖学的に説明がつくのかもしれない。
知りたい!


というわけで、本日のテーマは
「選択」でした。


タイトルは、『Trainspotting』の有名な冒頭。